自伝:整体師になったけど①

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足のコンディショニング越谷base

足掛け20年越谷に住んでいますが、ようやく地元に根を下ろし働くことになりました。ここでは無名の一整体師ですので、私のことを知らないみなさまと少しでも距離が縮まればと思い、包み隠さず、松田タカシをお話しさせていただきます。でも自分のために書いた。ほとんど。

 

 

陸上とギターに明け暮れた中学高校時代

中学、高校と陸上部で110mハードルという障害競技を専門にしていました。

中学の最後の一年は、住んでいた川口市の大会では完全優勝、うち2つは大会新記録と、好成績を残していました。

陸上と母親から習ったギターだけは真剣にやっていましたが、本当に勉強はサボっていました。

北辰テストという当時の偏差値が出るテストで2回連続で、40前後と衝撃の数字を叩き!流石に入れる高校がないことにショックを受けました。

そこから頭の良い年子の兄貴にお願いし、猛勉強を始めたのです。

幸い、部活で好成績を残していたので、私立へのスポーツ推薦を取り付け、それでも不安なので、勉強は続けました。

すっかり友達と遊ばなくなり、帰りは単語帳を開きながら走って帰る毎日。

結局、受験直前では3教科で偏差値は確か65か66まで上がりました。

 

スポーツ推薦で入った私立高校では、勉強はやはり、またしなくなりました笑。

陸上とギターに相変わらず夢中になる日々でした。陸上では3年間結局、地区予選は抜けられませんでしたが、高校ランキングでは34位。タイムだけは良かったおかげで、A標準突破者だけが出場できる横浜アリーナ室内陸上というなんだかすごい大会に出ることができました。全国の強豪と肩を並べて60Mハードル。いい思い出になりました。

そして、大学受験の時に、大学受かったらあと4年間は陸上に集中、終わったら音楽活動をしよう。受験失敗したら、就職はしないで音楽をやる。と決めました。

大学入試は、またスポーツ推薦。今では箱根常連校になった某大学一本に絞り望みましたが、文武両道を掲げるその大学の文の壁を超えられず、大学受験は失敗したのです。

 

 

とりあえず音楽。それしかなかった。

受験を失敗したら、中学からずっと一緒にギターを弾いていた親友と二人、

プロになれるかわからないけど、とにかくやると決めた。

陸上と音楽だけの6年間を過ごした僕にとって就職する選択肢はなく、

陸上なき今、アルバイトしながらの音楽活動にのめりこみました。

仕事では大どんどん大きなを仕事を任されるようになり、契約社員、社員とステップアップ、

音楽は新しいバンド仲間と出会い、ブルースバンドを結成、自主制作テープ、CDなどもリリース、あちこちで週末ライブ、東海地区遠征、すずめの泪ほどでもギャラも出たりしつつ、、こちらも夢中になりました。

仕事は仕事、バンドも最高、この時期は本当に夢のように楽しい日々でした。

ライブやるたびに、プロみたい、とチヤホヤされながらも一向にプロ化せず笑、

そして結婚

そんなうち、今の妻と出会い、2年を待たずに結婚。そうなるともうちゃんとしなきゃと、思うようになり、兼ねてから誘われていた正社員になる決断をしたのです。

その頃はもうバンド仲間もだんだんと仕事や転勤でライブが組めなくなり、プロになるメンバーも出たりして、ソロでライブもやるようになっていました。

私の職場は、先行きの不安なアミューズメント業界、成り行きで正社員までなったものの、

「ここに骨埋めるのか?」ということが現実的に目の前に現れた時に

ビジネスライクだから続いていた気持ちがはっきりとわかり、精神的に苦しくなって行きました。

耐えきれず、退職を決意したのです。

 

一国一城の主人に!

 

自分の時間を自分でコントロールできる生活ってなんだ?

好きな仕事を見つけ、音楽も続けられる環境って?

独立事業主しかないじゃないか!!

 

という感情が沸き立ち、次も決めず、会社を退職しました。結婚したばかり、義父に合わす顔もない、そんな中でやりたいこと見つけを始めました。もう行き当たりばったりです。

本当に何をしようか決まっていなかったのですが、高校の陸上部の仲間たちが、マッサージや整骨、カイロ、トレーナーなどを仕事にしてて、なんとなく、この道なら入りやすかな、と資料を請求し始めました。何箇所か体験にも行き、決めかねている時に、取り寄せた資料中に、僕の運命を変える一冊があったのです。

 

カイロプラクティックとの出会い

私が卒業した大川カイロプラクティック専門学院の学院長である、大川泰先生の著書、『カイロプラクティックほど素敵な仕事はない』この本を読み、人に感謝され、しかもちゃんと稼げて、夢のような未来が描かれていました。

授業見学での解剖学、生理学のしっかりしたカリキュラムは、アメリカのカイロの大学のレントゲンの授業以外を抜かせば引けを取らない内容だとの学院長のお言葉、実技でも国内のどの学校よりも実践的で中身が濃いという意気込みに感動し、施術体験の感触もよかったので決めたのです。

 

さあ、決まった。カイロプラクターになろう!と。

学院に入学し、誰よりも早く、現場に入り、手を作り、誰よりも早く、患者様を担当するようになりました。施術は素人でしたが、高校時代の先輩のマッサージ、背骨を鳴らす遊び笑、などで抗体がありましたので、同期が苦戦する難題課題はどんどんクリアしていきました。

 

学生のうちからどんどん経験を積み、治療の面白さや難しさを体験し、これはすごい仕事だぞ、しかも俺、向いてるぞ!(楽天的)と確信するようになりました。

 

実は父親に昔から言われていたことがありました。

「お前肩もみがうまいなあ。孝司のタカは親孝行の孝だからなあ」

 

こういう、親の何気ない言葉が僕の命に刻まれていた、のかはわかりませんが、父のいうとおりになったのか、と感慨深い気持ちになりました。

 

サービス業を長くしていた経験が生き、患者さんとのコミュニケーション、何を求めているのか、どう切り返したら良いか、など技術的に足りないところをコミュニケーションでリカバーしていました。

 

そして、2007年の夏、就職したのが武蔵野市のにしくぼ整体(前職場)でした。

8ヶ月働いたら、春には地元越谷界隈で独立する予定が、我が娘の出産と重なり、独立は延期。

あれよで院長に就任し、晴れて、フランチャイズですが、念願の独立事業主になったのです。

本当にやりがいのある仕事、難しいけど、笑顔を作る仕事、技術も大事だけど、

先輩たちが、常々、この仕事はサービス業だぞ、と言っていたのを

経験を積めば積むほど、本当にそうだ、治療って治す技術だけではないんだ、実感していました。

苦労もたくさんしましたが、働いてくれる仲間、患者さんに成長させてもらう日々でした。

 

自伝:整体師になったけど②

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